2012年1月29日説教から
2012-1-29
「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(ルカ15:32)
ルカ15章には三つの例えが語られ、最後が「放蕩息子」の例えです。父の家を出て放蕩の限りを尽くした弟息子が帰ってくると、父親は彼を無条件で迎え入れますが、兄は不満です。自分は正しいと思っている人間は罪人が救われることを喜びません。その兄に父親が言った言葉が招詞の言葉です。
ルカ15章では、「見失った羊を見つけたので一緒に喜んで下さい」、「無くした銀貨を見つけましたから一緒に喜んでください」と言われます。ルカ15章を貫くのは、見失ったもの、無くしたものを見つけた喜びです。悔い改めてイエスの話を聞きに来た徴税人や罪人は、イエスにとって、見失ったが見つけ出された羊であり、見失ったが見つけ出された銀貨、死んでいたのに生き返った息子だったのです。
そして「見いだせなかったもの」は、自分が罪人であることに気づいていない、自分が罪人であることを認めようとしないファリサイ派や律法学者の人々でした。彼らは自分たちこそ「正しく生きている」と思いこんでいます。しかし、神の視点からから見れば、彼らこそ「迷いの中で滅びよう」としているのです。そのことに気づいていない彼らに向けて例えが語られています。
私たちは自分をどちらの側に置くのでしょうか。自分が「迷った羊、失われた銀貨、失われた息子」だと思う人は、それを探してくれた神に感謝し、新しい人生を生きるでしょう。しかし、私たちが、「自分は人よりましだ、だから教会に属し、戒めを守っている」と思えば、私たちは「失われた存在になる」のです。

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