2012年5月13日説教から
2012-5-13
「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった『彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った』」(マタイ8:16-17)
福音書には多くの癒しの記事があり、「イエスの活動の中心は病の癒しや悪霊追放だった」と記者は記します。イエスが癒されたのは、多くの場合、当時の社会において罪人、汚れた者とされていた人々でした。らい病を患う人に対し、イエスは「深く憐れみ」、「手を差し伸べてその人に触れ」、癒されました。らい病者に触れることは自らも汚れることであり、当時のラビは決してしなかった行為です。イエスは一人息子の死を悲しむ母親を「憐れに思い」、「棺に手を触れ」、彼を生き返らせました。死者に触れることも「汚れ」として律法に禁じられた行為です。
私たちがこのイエスに従いたいと願う時、教会も病の癒しや悪霊追放を目標として掲げるべきなのでしょうか。一部の教会は病の癒しは現代でも可能であり、教会は取り組むべきだとしています。しかし癒しを求めることは神の力を自分のために利用することであり、それはイエスが拒否されたことでした。マタイはイエスの癒しの行為を「彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った」と表現しました。
イエスは自らが痛むことによって、病む者たちの痛みを共有された、この「痛みの共有」こそ、今の教会に必要なものではないでしょうか。痛みを共有することによって、「心身を病む人」を教会に迎え、教会を安息の場として提供する。まさに教会の為すべきことです。